生態水文学研究所とは

設置の背景

生態水文学研究所は、1922(大正11)年9月1日に東京帝国大学農学部附属愛知県演習林として設置されました(1)

愛知県尾張東部丘陵に位置し、奈良時代後半から日本の陶器生産の中心となって支配者階級のための灰釉陶器を生産していた猿投窯は、11世紀後半から律令体制の崩壊とともに庶民のための陶器である山茶碗を大量生産するようになりました(2)。当時の陶器窯の燃焼効率は悪く、製陶には大量の薪を必要としたため、尾張東部丘陵の森林は強い伐採圧にさらされました。基盤地質が深層まで風化した中古生代の花崗岩や古木曽川の堆積物からなる新第三紀層であったため、森林が伐採され根株まで掘り取られると、森林は自然再生せず、無立木地、無植生地(ハゲ山)に推移していきました。出土した陶器から年代が特定されている窯跡から出土した炭化材を分析したところ、原植生が常緑広葉樹林であるはずの猿投山付近で、薪として使われた樹種は10世紀には落葉広葉樹であるクヌギが主で、コナラ、マツも見られましたが、13世紀にはほぼマツのみでした(3)。マツは常緑・落葉広葉樹がすべて伐採され、根株、土壌がすべて流出し、砂礫がむき出しになった荒廃地を好んで自生する樹種です。山茶碗の大量生産の影響で、この地域の山は13世紀にはほぼハゲ山になっていたことが確かめられました。12世紀始めには常滑、渥美で大規模な生産が開始され、知多半島にはざっと3000基、渥美半島には約500基の窯跡が認められます。

生態水文学研究所の敷地内に、瀬戸市唯一の国指定史跡である 「小長曽陶器窯跡」 があります。この窯は室町中期に造られ、14世紀末~15世紀初めに創業し「古瀬戸」釉の陶器を生産していました。 その後いったん放棄されましたが、江戸時代の17世紀末頃に再利用されたことが証明されています。 その理由の一つとして、室町時代にいったん燃料である薪の入手が困難となりましたが 江戸時代に森林が再生し、薪が再び入手可能となった可能性があります。

小長曽陶器窯跡写真保存のため設置されたフェンスの内部写真
国指定史跡「小長曽陶器窯跡」保存のため設置されたフェンスの内部

近世に入ると人口の増加、農地の拡大、社会経済の発展などが複合的に作用し、森林の過剰利用と木材の枯渇が起きました。矢田川も庄内川も、上流域に瀬戸、多治見、土岐などの窯業地を抱えていたため、河川への土砂流出の問題が深刻となり下流の水害の頻度が上がるようになりました。

1666年に幕府は四老中連名で「諸国山川掟」を発し、土砂流出防備のために根株掘り取り、新規耕作の禁止とハゲ山への木苗の植え付けを義務付けましたが、それに先だった1661年に尾張藩は水野村に御林方役所を設け、山林保護に着手し、1722年には正月用門松に真のマツの使用を禁止、1726年には新規開墾を制限しています。1767年には「明和の洪水」により死者2,154人を出す大水害が発生しました。1770年~1778年頃の愛知県瀬戸市付近の様子を描いた内藤東甫『張州雑志』の絵からは、山は見渡す限りハゲ山で、窯が山の斜面に立地し、山から流れだす川は幅が非常に広く、川底に大量の土砂が流れてきていることがわかります。川には堤防を築いて田を作っていますが、川底よりも田の方が低い、天井川の状態になっています(4)。尾張藩は1784年に「天明の治水」に着手し、庄内川の悪水排除を目的として新川を開削しましたが、同時に、1782年に水野代官所に山方係を置き、ハンノキやマツを用いた治山植樹事業を開始しました。このような努力もあって森林は再生に向かいました。

しかしこれも長くは続かず、幕末期を迎え、自然災害が相次ぎ、森林にも影響が及びました。1854年に安政地震(東海・東单海・单海地震が連続して発生)がこの地を襲い、窯業者に多大な損害を与えました。1868(明治元)年には日本最大級のため池である入鹿池が決壊し、死者941人、流失807戸の大惨事となりました。被災者救済のため伐採許可を与えたことで、森林は再び荒廃の一途をたどりました。幕末・明治維新期の秩序崩壊、地租改正、官民有区分等の制度改革に伴う混乱がそれに拍車をかけました。尾張地域では御料林に区分された森林にハゲ山が多かったという特徴があり、1905(明治38)年の愛知県のハゲ山統計では、民有林17,700ヘクタール、御料林13,849ヘクタールとなっており、これは全御料林の6割に相当します。

1889(明治22)年に作成された5万分の一地形図から愛知県が作成した地図によれば、両半島および尾張東部丘陵はほとんどハゲ山となっていたことが読み取れます。このようなハゲ山は、信楽焼、備前焼を有する滋賀県、岡山県にも見られ、尾張・知多地方と合わせて後に日本三大ハゲ山地帯と呼ばれるようになります。1897(明治30)年には治水三法の一つとして砂防法、森林法が制定され、愛知県のハゲ山は1899(明治32)年に砂防法指定地となり、治山・砂防工事が盛んに行われるようになりました。

1900(明治33)年に東京帝国大学農科大学林学科第四講座として森林理水及び砂防工学教室が設置されました。1905(明治38)年に、県はハゲ山を復旧するため、東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書です。その後、森林理水及び砂防工学教室は1913(大正2)に長久手町内に694ヘクタールの演習地を設定し、研究教育を開始しました。

このような背景のもとで、1922(大正11)年に帝室林19野局名古屋支局の管理下にあった東春日井郡瀬戸町、赤津村、同水野村、丹羽郡城東村、計約1,300ヘクタールの御料林を本学資金公債との交換によって購入し、東京帝国大学農学部附属愛知県演習林と名付けました。

設置後の経緯

1929年から観測を開始した白坂量水堰の写真
1929年から観測を開始した白坂量水堰

東京帝国大学愛知県演習林は、1922年10月1日に仮事務所を東春日井郡瀬戸町に置いて事務を開始し、翌1923年12月に同郡水野村大字上水野字安戸に庁舎を新築しここに移転しました。1931年当時の面積は、水野地区477ヘクタール、東山地区123ヘクタール、白坂地区235ヘクタール、犬山地区508ヘクタール、合計1,343ヘクタールでした(第3期試験研究計画には合計1,354ヘクタールとの記載がありますが、これは1,354町歩の誤りであり、ヘクタールに換算すると1,343ヘクタールとなります)。

同年から穴の宮において量水堰堤建設工事を開始し、翌1924年には完成し、1925年には気象観測、量水観測を開始しました。その後順次、東山で1928年、白坂で1929年、数成で1930年に気象観測、量水観測を開始しています(数成の気象観測は1950年に、量水観測は1952年に廃止)。

1925年には静岡県浜名郡新居町長から東京帝国大学総長宛に、遠州灘に面して細長い砂丘地を新居試験地として設置する請願書が提出されました。これを受けて1928年に新居試験地約20ヘクタールが設置され、強風による飛砂を防ぐ目的で海岸砂防林造成を開始しました。気象観測も1929年から開始しています(1966年中止)。

1943年以降、事務所と試験地の一部は瀬戸市東松山町に置かれ、気象観測も行われました(1949年中止)。1947年に東京帝国大学は東京大学となりました。1949年には白坂量水堰堤の流域内に北谷、南谷の小流域が設けられ、それまでの白坂堰堤は「本谷」と呼ばれるようになりました。

1963年に瀬戸市からの強い要請によって水野地区および東松山の事務所敷地約400ヘクタールを手放しました。この土地は東海財務局を経て瀬戸市に移管され、現在は工業団地、住宅地、運動公園等になっています。この交換によって大学が所有していた粘土鉱山も手放し、現在はその地で操業している山甚大学鉱山(株)の名称に大学の文字があるのは、ここでかつて東京大学演習林の操業する鉱山があったことを示しています。東京大学は代わりに農林水産省林野庁名古屋営林局管理下の品野国有林392ヘクタールを得ました。1965年には事務所も瀬戸市五位塚町に、宿泊施設も瀬戸市北白坂町に移転しました。

犬山研究林では、戦後の農地開拓事業、愛知用水事業、学校用地などのため土地を手放したほか、犬山市からの要請により1965年に橋爪山地区約71ヘクタールの土地を犬山市所有の八曽、斧研地区約76ヘクタールの土地と交換しました。この土地は現在、犬山カントリークラブとなっています。
その後、演習林は農学部の附属施設と位置付けられてきましたが、2001年の改組に伴い大学院農学生命科学研究科の附属施設となりました。2004年には国立大学法人東京大学となり、演習林の土地は法人に継承されました。それに伴い土地の所有形態も文部科学省管理国有林から法人の所有する私有林となり、現在に至っています。

生態水文学研究所の位置

事務所および2研究林1試験地の位置
事務所および2研究林1試験地の位置

生態水文学研究所は、名古屋市の北東約20km の愛知県瀬戸市中心部に位置する事務所・研究室(1 ヘクタール)と2研究林1試験地により構成されています。

赤津研究林(745 ヘクタール)は瀬戸市の東 部に位置し、北は岐阜県境の三国山麓から单は猿投山にいたる尾張地域に広がり、東縁を三河地域と接しています。赤津研究林内には作業所・宿泊施設・苗畑があります。犬山研究林(443 ヘクタール)は名古屋市の北約20km の犬山市東部に位置しています。犬山研究林内には作業所があります。穴の宮試験地(77 ヘクタール)は瀬戸市の北部に位置しています。

生態水文学研究所の地質、地形、気候

白坂気象観測所の月平均気温と降水量グラフ
白坂気象観測所の月平均気温と降水量
(1975-2004年)

赤津研究林と穴の宮試験地のほぼ全域は中古生代の花崗岩を基岩とする黒雲母花崗岩と花崗閃緑岩からなり、風化は深層に及んでいます。赤津研究林(標高244-692m)の平均傾斜度は25゜、穴の宮試験地(標高130-272m)の平均傾斜度は19゜です。犬山研究林(標高70-218m)の大部分は新第三紀層からなり、上部では部分的に古生層砂岩がみられます。

赤津研究林内の白坂気象観測露場での30年間(1975-2004)の記録でみると、月平均気温が最も寒い1 月で1.4℃、最も暑い8月で23.9℃、年平均が12.9℃です。また平均年降水量は約1,860mm で、温暖湿潤な気候です。

生態水文学研究所の森林の概況

生態水文学研究所の森林は、最終氷期には針葉樹林および冷温帯落葉広葉樹林であったと予想されます。これらの樹種はその後の温暖化に伴い高標高地に避難せざるを得ませんでした。猿投山山頂付近に残存している樹齢200年を超すと推定されるモミ、ツガがその例です。「張州雑志」では猿投山の瀬戸市側斜面は山頂までハゲ山として描かれていますが、豊田市側には猿投神社の所有する森があって、当時から原生林に近い状態で森林が保護されていたと考えられます。

創設当初の研究林は、赤津研究林は尾根筋がほぼ裸地、犬山研究林と穴の宮試験地は沢筋にわずかに樹木がある程度でほぼ全山裸地、新居試験地は砂地で草木がわずかにみられる程度でした。その後、砂防植栽や林業目的のヒノキ、スギの植栽が行われ、現在に至っています。現在の林況を林種別に示すと以下のようになります。

(1)天然生林

天然生林は赤津研究林と一部犬山研究林に存在し、主にコナラ・アカマツ・ヒノキ・コハウチワカエデを上層木とし、中下層にヤブツバキ・ヒサカキ・サカキ等の常緑広葉樹類がみられます。近年続いているマツノザイセンチュウによるアカマツの枯損被害は甚大で、一部を除いて消滅の途にあります。さらに近年、カシノナガキクイムシによるコナラの枯損被害が拡大しつつあるものの、アオハダ・ソヨゴ・ヒサカキなどの天然生の樹種が健在で、自然の遷移に任せた管理をしても土壌の流亡や裸地化の心配はないとみられます。

(2)人工林

植栽樹種はヒノキ・スギが主で一部がマツ・広葉樹です。近年の立木価格の低迷や大学の経費削減の影響を受け、一部の人工林は間伐遅れの状態にあり、いわゆる不健康人工林となっています。不健康人工林の中には林内に光が入らず下層植生が皆無で、雨滴の衝撃により表層土壌が砕かれ、土壌孔隙を目詰まりさせ、浸透能の低下や土壌流出がみられる人工林も存在しています。

(3)砂防植栽林

犬山研究林と穴の宮試験地は創設当時全山ほぼ裸地でした。犬山研究林では創設から1942 年までにクロマツ・ヒノキ・ハンノキが砂防植栽され、1950~1952 年に種々の治山工事や砂防植栽が施工されました。穴の宮試験地においても創設後、砂防植栽等が施工され、現在は全山緑に被われ当時の荒廃の面影はありません。近年のマツノザイセンチュウによる被害により、植栽したクロマツ・天然生アカマツの枯損が穴の宮・犬山で著しい状態です。さらに近年、カシノナガキクイムシによるコナラの枯損被害が拡大しつつあるものの、アオハダ・ソヨゴ・ヒサカキなどの天然生の樹種が健在であり、自然の遷移に任せた管理をしても土壌の流亡や裸地化の心配はないとみられています。

 

引用文献
(1) 東京帝国大学農学部演習林(1931)東京帝国大学農学部附属愛知県演習林概要、27pp.
(2) 矢部良明(監修)(1998)日本やきもの史,206pp,美術出版社,東京.
(3) 植田弥生(2001)広久手18・20・30 号窯跡出土炭化材の樹種同定,瀬戸市埋蔵文化財センター調査報告書第23 集、268pp,瀬戸市教育委員会,愛知.
(4) 蔵治光一郎(2010)第2 章 水と森と人,東京大学『水の知』(サントリー)編・沖大幹監修『水の知―自然と人と社会をめぐる14 の視点』,化学同人,33-52(全286 頁).