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日本学術振興会人文社会科学振興プロジェクト
「青の革命と水のガバナンス」研究グループ
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第12回研究会
「科学者は何をすれば、社会の役に立つのか?
治水計画策定プロセスを事例として」

日時:2006年3月3日(金)17:00〜19:00
会場:東京 独立行政法人日本学術振興会麹町事務室会議室 (ヤマトビル4階)
開催趣旨
 今日、科学・技術と社会との接点では多くの「公共的」問題が発生している(藤垣裕子、専門知と公共性、2003)。治水計画を例に取れば、ある川に新規にダムを建設することが治水上必要なのか否かという判断に対して、学識経験者は法の定めにより関与し、責任を果たすことが求められているが、専門家として何をすればその責任が果たせたことになるのかについて、専門家・行政・一般市民の認識は必ずしも一致しておらず、そのことが治水計画を巡るコンフリクトが生じる一因にもなっている。このような問題意識から、「青の革命と水のガバナンス」第10回研究会(2005年12月2日)では、河川計画における研究者の役割について意見交換を行った。 今回の研究会では、研究者の役割と責任をさらに幅広い視点から議論するため、4 0代前半の第一線で活躍されているお二人の研究者のお話を伺い、治水計画の分野で問われている「専門家の果たすべき役割・責任」をどのように考え、どのようにそれを実践されているのかを議論したい。さらに国土交通省の方には、研究者がどういうことをすれば、行政の役に立つのかという立場からコメントをいただくことにしたい。

出席者(敬省略)
立川 康人 京都大学・防災研究所社会防災研究部門
沖 大幹 東京大学・生産技術研究所
稲田 修一 国土交通省・河川局河川計画課河川計画調整室長
蔵治 光一郎 東京大学・愛知演習林
佐藤 正幸 名古屋市・東京事務所
木内 勝司 (有)木内環境計画事務所
梶原 健嗣 東京大学・大学院
土肥 勲嗣 九州大学・大学院法学府、日本学術振興会特別研究員
五名 美江 東京大学・大学院
杉浦 未希子 東京大学・新領域創成科学研究科D2
大野 智彦 京都大学・大学院地球環境学舎
野村 茂夫 三井共同建設コンサルタント(株) 東北支社長
三阪 和弘 東京大学・工学系研究科社会基盤学専攻河川流域環境研究室
吉村 耕平 東京大学・工学系研究科社会基盤学専攻河川流域環境研究室
大杉 奉功 (財)ダム水源地環境整備センター 研究第三部
守利 悟朗 東京大学・生産技術研究所
遠藤 保男 水源開発問題全国連絡会 
塚原 浩一 国土交通省・河川局河川環境課 河川環境保全調整官
長井 はるみ 名古屋大学・環境学研究科社会学研究室
辻村 大生 名古屋大学・環境学研究科社会学研究室
岡田 幹治 フリーライター
小野 有五 北海道大学・大学院地球環境科学院
三橋 允子 奥胎内ダムを考える会
山本 隆広 長岡技術科学大学・大学院工学研究科
井上 祥一郎 伊勢・三河湾流域ネットワーク
有友 正本 大洲市議会議員
石原 紀彦 名古屋大学・環境学研究科社会学研究室
まさのあつこ ジャーナリスト
益田 信一 (独)国際協力機構・地球環境部第3グループ水資源・防災第1チーム
計29名

議事メモ(敬称略)

1.趣旨説明・出席者紹介

2.話題提供

2−1.立川 康人(京大)
『シミュレーションモデルによるダムの効果の分析−淀川流域を対象として−』 どれくらいの降雨に対して、われわれの流域は安全なのだろうか。将来的にみると流域や気象条件が変化するので、流域の安全度は変化する。今の安全度を考えるには、淀川の場合は既存の8つのダムによる流域制御の影響を考慮する必要がある。そこで淀川の枚方地点(流域面積7,281ku)を対象としたシミュレーションモデルを作成した。モデルは物理的・分布型流出モデルとし、流域の地形を250mの空間分解能の数値標高モデル(DEM)で表現して、土地利用ごとに異なる流出パラメータを用いた。部分流域要素モデルはDEMによって流水方向をあらかじめ定める落水線型のモデルとし、河道要素モデルと接続して流域全体の流れを表現する。流れの状態を決める土層モデルでは、3つの形態(@マトリックス部の流れ、A巨大空隙部の流れ、B地表面流)を想定し、流量流積関係式を設定した。ダムについては実際のダム操作の手順をモデル上で再現した。
 1982年の洪水の2日間雨量(超過確率20年程度)を50,100,150,200,300年確率の雨に引き伸ばし、ダムの整備状況ごとに計算して、ダムの治水上の効果を示した。200年確率降雨の引き伸ばし率は1.39であった。ダムが整備されるに従い、治水効果は上がる。ダムの個数が少い場合は再現期間が短い中小規模洪水への効果が顕著である。ダムの建設数が多くなってくると大きな洪水にも効果を発揮している。
 1982年以降の異なるパターンの降雨を用いて同様の計算をしたところ、ピーク流量は非常に大きい範囲でばらついていた。それらの平均でみればダムの効果は明瞭であるが、洪水によってはダムがあっても洪水ピークが高かったり、ダムがなくても低かったりする。同じ総降水量であっても降雨の時間空間パターンが異なると洪水ピーク流量が異なるためであり、異なる降雨パターンを用いた場合は、ダムがある方が、ダムが無い場合よりもピーク流量が大きくなることがあり得る。ただし、同じ降雨パターンを用いた場合は、ダムが存在する方が、ダムがない場合よりもピーク流量が大きくなる、ということはない。 ダムが整備されても、その調整範囲を超えた極めて大きな洪水では効果は減少、もしくはなくなる。 現時点の治水安全度を評価しそれを基本として発展する計画論が必要である。全国の河川流域で統一した方法で、治水の基準となる値を決めることは妥当と考える。 高度に流水制御が実施されている流域(例えば淀川)において、治水施設が存在しないことを仮定して求める基本高水は、観測値から導出することができない架空の水文量となってしまう。治水制御の効果を陽に取り込んだ流出シミュレーションモデルや、時々刻々蓄積される新たな観測データを用いた河川計画を考えて行けないであろうか。

2−2.沖 大幹(東大)
『治水−誰が何から誰をどうやって守るのか?』
 世界水危機解決へ向けた研究の貢献を目指している。信頼のおける水循環情報の提供が使命。研究者のすることは選択肢の提示であり、決めるのは研究者ではない。国内では、1999年玄倉川での死亡事故、2000年東海豪雨、2004年に水害で200人以上死亡。日本は先進国であるはずなのにこういうことが起きてはいけないと感じた。
 本日のメッセージ(忘れないうちに先に) 科学的不確実性が小さくても(社会が)合意するとは限らない。どういう場合に合意がありうるか?:目標を実現する手段については合意できるかもしれないが、目標が違ったら合意できない。 新聞等のメディアは間違った情報を流したり必要以上に対立をあおり立て、神経を逆なでする(そうしないと仕事にならない)(例:ゆとり教育)。
対立を好むセクターが存在する。
 温故知新、治水の思想、資金の制約の技術、土砂法(私権の制限)から特定都市河川浸水被害対策法(浸透阻害行為の届出、係数が決まっている)。 研究者の役割の一つは長期的視点を提供すること。焦らず必要とされるまで待つことも大事なのでは? 東海豪雨と庄内川:基本高水計算で想定していた雨量よりも多い雨が降ったが、実際に流れた水量は基本高水を下回った。先行降雨が少なかった結果と解釈されるが、先行降雨(水分)条件は確率計算になじまないので、基本高水計算には入れていない。
 基本高水を適切な値にすることが、災害の防止につながるのか?災害を防止するにはどうすればよいかを議論すべき。基本高水を巡る議論は蛸壺化しているのではないか。
 庄内川・木曽川と名古屋中心部の地図を裏返すと利根川・江戸川・荒川と首都圏の地図をそっくり!昔の土地利用図をみると、もともと新川は名古屋城を守るためにあったことがわかる。東海豪雨で浸水しなかったところは200年前も市街地。市街地を守るために洪水時には犠牲にするはずの土地で都市化を進めたことがまずい。浸水はたまにしか起こらないので忘れられる。
 治水には守るべき優先順位がある。出水時に河川の水位が上昇したとき、ポンプの排水規制地区があらかじめ決められている。 現地に行こう。地域性、歴史性などの広い視野をもとう。
 「全部等しく安全」はもう無理。すべての場所を守るわけにはいかず、うまいやり方ではない。大河川の治水工事は平均6割しかできていない。
最近は学者よりも役所の方が斬新である。
気候変動の影響:プレミアムとして水増しする必要があるのでは?
 低いところには住まないようにする。
 堤防決壊場所や、「いつ切れるか」がわかっていれば対応ができるのではないか?
 治水は「公」で、多数決、経済原理では成り立たない。弱者救済、福祉の側面がある。
 計画論としては、必ず目標は必要。
 「役に立つ」かどうかと、「研究者」かどうかは、関係ない。治水思想を読み解き、現代に生かすことができる人材が求められている。

3.質疑・応答
まさの あつこ(ジャーナリスト)
 @ダムの数を増やしてもピーク流量が大きければ大きいほどダムの効果は認められなくなると考えていいか?
 A平均的にはダムの効果があるが、逆転しているところもあるので、現実的には違うという認識を持ってよいのか?

回答(立川)@:ダムが増えると流域全体として貯水量は増加するので、より大きな洪水に対してダムの効果は現れると考える。ただし、シミュレーション計算では、ダムの機能を上回るような極めて大きな洪水に対しては、対象地点によってはピーク流量を低減させることはできないという結果となった。予測雨量の利用や操作ルールの変更により既存ダムの機能を最大限発揮させることを考えなければならない。

回答(立川)A:同じ総降水量であっても降雨の時間空間パターンが異なると洪水ピーク流量は異なる。そのため異なる降雨を用いた場合は、ダムがある方が、ダムが無い場合よりもピーク流量が大きくなることがあり得る。ただし、同じ降雨パターンを用いた場合は、ダムが存在する方が、ダムがない場合よりもピーク流量が大きくなる、ということはない。

山本 隆広(長岡技術科学大)
 @ダムのメンテナンスなどの効果はどうか?
 A実際に河川計画論に対してどう組み入れればいいのか?
回答(立川)@:まさのさんへの回答に同じ
回答(立川)A:基本高水(目標値)があることによって、他の計画との比較が可能になる。基本高水を下げるということではなく、物差しとして置いておくべき。

杉浦 未希子(東大)
 治水は「公」であり福祉的側面がある、というご意見だが、その「公」や「福祉」を水系単位で考えると、たとえば下流対上流、都市と農村という構図の中で利害対立を招くこともある。その点をどのようにお考えか。
回答(沖):20〜30年後まで国は待って、住民に見放されてしまえば、国も中山間地にこだわらなくなるのではないだろうか。それでもそうした土地に人が住んでいて欲しい、と国民が望めば、公務員を住まわせる、といったことしかなくなってしまうような気がする。
コメント(蔵治):農山村に住むということに対して補助金を直接支払う(デカップリング)。ヨーロッパでは普通に行われていて、日本の農政でも始まった。道路がよくなったので、農山村に住んで都市に通勤できるようになった。

三橋 充子(奥胎内ダムを考える会)
 基本高水が高すぎるからダムが必要になる。補助金制度(河川改修よりも多目的ダムの方が県費の負担が少なくて済む)せいもあって、ダムが優先され河川改修が遅れる。その例として7.13(新潟)水害の五十嵐川では大谷ダムの416万トンを無駄にした問題や、ダムカットが計画の1/2であったこと、300年確率で100年確率より1000トン/秒も少なかったことなどがある。

回答(沖):基本高水の数字が高すぎるかどうかというのは、住民の判断である。基本高水どおりになるはずはない。自然放流ダムは柔軟な対応ができないが、人為的なミスはなくしたい、責任は取りたくないのが本音。責任の追及しすぎではないか。平均値の話ではなく、一人一人の話である。

有友 正本(大洲市議会議員)
 変な降雨をむりやり入れて基本高水を高くしようとしている。

回答(沖):高すぎると思ったら高い。

小野 有五(北大)
 正しい高水を出すように努力するのが研究者の仕事。今の数字は実際には学問的に言っても100年確率の雨で300年とか500年とかの確率の流量になっている。同じ300mm降るとして、パターン別にいくつかのものを示す必要がある。1つのパターンの引き伸ばしをしているので、1つの解しか出てこなくなるのであって、研究者は降雨パターンの確率を研究すべきではないか。

回答(立川):降雨の確率と流量の確率は一対一には対応しない。雨の確率だと、流量にしたときにバラツキとして出てくる。

回答(沖):そうは思わない。科学的に確率を全部調べて、仮にある値を出したとしても、合意はできない。科学的に確かな情報があればOKではない。目標を決めるプロセスは自然科学者の役割ではない。

コメント(小野):もちろん決めるのはあくまで住民であり、基本高水は、社会的・経済的に選択すべき数値である。行政から出されている基本高水が、科学的には唯一絶対の数値ではないことをわかりやすく住民に伝えるのが科学者の義務である。


梶原 健嗣(東大)
 堤防が壊れやすいところを放置しておくのは、水害訴訟・河川管理瑕疵の観点からどうなのか。

回答(沖):水害訴訟、河川管理瑕疵の論理から言えば、限られた予算の範囲内で最大限に治水効果を発揮するために逐次堤防補修を進めている、ということになるのであろう。しかし、本来の治水の思想から言えば、優先順位、また、守るべきところをきちんと守るため氾濫させる、という手法もあるのだと思う。また、土地利用の適正化によって、費用を抑えつつ無理のない治水効果をあげるような手法が、洪水保険の導入も含めて今後重要さを増してくるものと思われる。ただし、公的に治水をやる意味は、経済の論理だけでは対応できない社会福祉的な側面を治水が持っているからで、そういう側面を忘れてはいけないと思う。

石原 紀彦(名古屋大)
 社会学的には例えば実際土嚢を誰が積むのかということに興味がある。基本高水とか河川計画論とそれがどうつながるのかということを考えないといけない。

コメント(蔵治):治水政策の実効性という観点で重要な研究だと思う。

木内 勝司((有)木内環境計画事務所)
 治水は、土地利用計画。どんな人工物を選択するのかという選択の問題だが、その仕組みがない。住民には決められない。科学者を信じられないなら、科学者の意味がない。科学者は行政に専門性を提供するのが重要。住民はプロセスをチェックするのが役割ではないか。

4.コメント
稲田 修一(国土交通省河川局)
 お二人の報告と、参加者の多くの意見に感謝する。
 塩野七生さんが好きで、「人間は見たいものしか見えない」という言葉を個人的には大切にしている。行政、研究者、市民では見方が異なる。
 基本高水は大洪水というめったに生起しない非日常的な事象を想定している。洪水という事象は、流量計測でも相当の誤差を含むが、行政の計画立案にあたって真値として評価せざるを得ない、そういう性格の事象であると理解してほしい。厳密解を求めようとする研究者からは正しい評価とは思われないかもしれないが、治水施設の整備を進めるための計画立案にあたっては、以上のような制約の中でも一定の判断をしていかなければならない。
 確率には幅があり、どれを選択するかは行政として考えないといけいない。 基本高水をどうするか、と、治水をどうするか、とは違う。無限の外力がある自然現象を対象に有限の人工施設で対応しようとするのだから、どんな事象の発生に対しても万能でないのは当たり前。効果が有限であることは当たり前。これまで行政がそれを万能と言ってきたのは誤り。逆に森林を整備すればダムが要らないというような極論もおかしい。ダム万能も森林万能もいずれも誤り。どのような外力に対してどのような効果があるのか、計画論として効果を定量的に評価すればいいのかが大事なこと。ダムでも森林でも効果をわかりやすく説明できる、より説明性の高い治水計画にしたい。現状の手法で満足している訳ではない。新しい方法やモデルを研究者は提供してほしい。分布型モデルや物理モデルには、いろんなデータが新たに必要になるが、精緻なモデルに適当なデータがないので、現実の治水計画への適用性は小さいと思う。現場でやむを得ずジレンマを感じながら貯留関数法を使っている。
 行政が行う以上、世の中に認められている考えに基づいてしか計画も作れない。
極端なことはできない。ひとりの学者が言っているだけでは採用できない。「定説」に高めてくれないと使えない。
                                           以上

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