秩父演習林の動物とその調査(出版予定の原稿2002.10執筆)
1993年5月11日、新緑のまぶしい荒川源流に近い赤沢べりを学生のH君と二人で踏査していた私は、ふと向かいの白手岩沢の奥、数百メートル先の覗き岩の下のブナの木を見上げて黒いものが動いているのを見つけた。それは、前年に発信機をつけてあった雌のツキノワグマで、受信機のスイッチを入れてはっきりとした電波を確認した。双眼鏡で観察すると、高い木の枝先を身軽に動き回り、いとも簡単に太枝を折っては柔らかい葉を食べていた。あんなにばりばり食べられたらブナが枯れてしまいそうに思えたが、クマに枝を折られて枯れているブナは見たことがない。ほかでも同様の観察をしたことがある。新緑の中で、黒い毛に覆われたツキノワグマの体は、くっきりと目にしみて映えていた。視力の劣る私が遠目に発見するほど、目立つ存在だ。とはいえ、樹上のクマをじっくり観察できる機会は、山中に長く滞在していてもめったにない。その森の豊かさが実感される。
荒川源流の、原生的な地域をふくむ冷温帯(山地帯)天然林を多く有する秩父演習林には、本州に生息する哺乳類のほとんどが生息している。ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカ、イノシシ、ニホンザル、ホンドギツネ、タヌキ、アナグマ、テン、ノウサギ、ニホンリス、ムササビ、ヤマネ、アカネズミ、ヒメネズミ、ヒミズなどである。
鳥類は、約80種を確認した。ここで繁殖している代表種をあげると、クマタカ、ヤマドリ、キジバト、アオバト、オオアカゲラ、アオゲラ、キセキレイ、カワガラス、トラツグミ、アカハラ、ヒガラ、コガラ、シジュウカラ、ヤマガラ、ハシブトガラスなどである。
秩父山地には、明治時代の初期までニホンオオカミも生息していたらしい。奥秩父にある三峰神社はオオカミをご神体として祭っている。この神社にある博物館の解説によると、オオカミは、江戸時代まで、山間の畑を荒らすほかの動物たちの捕食者として村人に崇められ、また三峰神社が畑の番犬代わりに貸し出していたという。しかし、明治時代になり、鉄砲が民間でも利用されシカなどのオオカミの食物を人間もさかんに利用するようになると、両者の間は競争関係になった。山の野生動物が減少した結果、オオカミは家畜を襲うようになり、駆除の対象となっていった。さらに追い打ちをかけて、海外から持ち込まれた狂犬病がオオカミにも感染し、人間も噛むオオカミが出てきたため、駆除に拍車がかかった。そして、ニホンオオカミは、20世紀の初期に絶滅した。
戦後の復興の中で、大量の木材が秩父山地からも伐りだされ、拡大造林政策によって天然林が野生動植物の少ないスギやヒノキの人工林に転換されていくと、カモシカやシカの個体数も減っていったと思われる。日本固有のニホンカモシカは天然記念物に指定され、ニホンジカさえも絶滅を心配する意見があったらしい。その後、地上近くに植物が繁茂する人工造林地はカモシカやシカの絶好の餌場となったために、これらの個体数が増加した。両種は、林業に被害を与える「害獣」として駆除の対象となった。縄張りを持ち生息密度に制限の多いカモシカの問題は解決に向かったが、最近ではシカ、イノシシ、サルなどの個体数増加と林業や農業への「加害」、あるいはシカにおいては自然林や草原への過大な負荷さえも問題にされ、個体数調整が必要だという意見が強くなっている。
そのような中にあって、秩父山地では、シカやサルなどの姿をよく見かけるようになり、一部の林地と農地でこれらの動物による「加害」が問題になっているものの、まだ著しい密度増加は確認されておらず、自然のバランスは一定の範囲に保たれているように思われる。こうした野生動物の豊かな自然をなるべく保存しつつ、人間社会との摩擦もあるていど解決するためには、野生動物の生態をよく理解することが役立つはずだ。昔は、村に暮らし、毎日山に入って仕事をする人々が、自然や野生動物についての深い経験と知識を持ち、苦労を重ねながら対応をしてきた。しかし、現代ではそのように山で暮らす人々はいなくなり、経験も知識も不足しがちである。その代わりに、社会全体で共有できる知識と技術を得るための、自然科学的、生態学的な調査研究と、研究にもとづく対策やそれを実施するための制度が必要とされている。
東京大学秩父演習林では、国道140号線の林内への施設工事や急傾斜地に施設された道路構造体、および開通にともなう交通が、野生生物に及ぼす影響、特に個体群の分断効果を明らかにするために、ヘリコプターによる広域のシカ・カモシカ等の個体数と分布の調査や、ツキノワグマ個体群の生態調査、樹木の健康状態を間接的に知るためのキクイムシ類の発生予察試験などを実施した。
ヘリコプターから大型獣を数える
1987〜1989年と2001年の12月に、秩父演習林栃本地区の2000ヘクタールを超える大面積の急峻な山地全体に生息するシカ、カモシカ等の大型獣の生息頭数と分布位置を確認するために、ヘリコプターで山林上を低空で飛び、直接目視観察して確認し数え上げる調査を実施した。落葉樹の葉がすべて落ちて見通しがよく、山岳地の大気が安定するため、ヘリコプターで低空飛行し目視調査するのに適した条件を選ぶとこの時期になる。
林冠のすぐ上をヘリコプターで飛行し、ローターによる風を地上に当てて動物を驚かして目視確認できる位置に追い出せれば理想的だが、気象条件やパイロットの判断による安全確保の制約から、それほど低空・低速度で急斜地を飛行できることは少ない。1988年には理想に近い飛行が実現し、計数できた個体数もその前後の2年よりも多かったが、それ以外の調査では、やや高めの飛行調査にとどまった。それでも、通常の飛行とはけたはずれに地上と樹冠に接近し調査区域をくまなく飛び回った。飛行は、森林の管理区画である林班単位で経路をずらしながら沢から尾根へ向かって林冠上を飛び、尾根から沢までは上空を引き返すという形で行った(図1)。
使用機種は、1987年がベル206B、1988年、1989年および2001年がより大型で馬力のあるアエロスパッシャルAS350Bであった。広い視界を確保して少しでも見落としを減らし機体直下の最も近い視野でも確認がとれるように、1987年と1988年には後部座席の落とし窓を開け、1989年にはドアをはずし、2001年にはドアを全開にして、パイロット・ナビゲータ・後部座席左右の調査員2名の4名で観察した(図2)。
1987年、1988年、1989年、2001年のそれぞれにおいて、約2,200ha、約 2,395ha、約2,395ha、約2,449haの区域を飛行し、カモシカを15頭、36頭、23頭、6頭、シカを10頭、21頭、8頭、25頭、観察した。その他には、ツキノワグマを1988年に3頭と2001年に1頭や、サル、タヌキ等の哺乳類、ヤマドリ、アオゲラ、マヒワ等の鳥類も少数記録した(図3)。
各年の観察密度は、カモシカが 0.68頭/Km^2、1.50頭/Km^2、0.96頭/Km^2、0.25頭/km^2、シカが 0.45頭/Km^2、0.88頭/Km^2、0.33頭/Km^2、1.00頭/km^2となった。これらの値は、同じ手法による群馬県中之条におけるカモシカの結果(4.6〜5.8頭/km^2, Abe & Kitahara)や、地上での区画法による1978年と1984年のカモシカの全国平均の値(2.55±2.72(S.D.), 2.63±3.74, 群馬県教育委員会ほか 1988 から引用)に比べ低めであったが、1987年と2000〜2001年の埼玉県での区画法による調査結果と比較すると、両種とも同等の密度になっていた(群馬県教育委員会ほか 1988, 2002)。特定のなわばりを持たず群れも形成するシカでは、高密度地では10〜100頭/km^2にも達するが(千葉演習林 未発表, 高槻 1992)、秩父山地のシカの生息密度はずっと低めの定常状態らしい。人家の周辺や畑地などで目立つようになっているのは、人前に平気で出てくる個体の割合が増えている結果なのかもしれない。
ツキノワグマの生態と調査
ドラムカン罠による捕獲
1990年から2000年までの間、ツキノワグマを捕獲して標識し、大型の個体には首輪で発信器を装着して電波の受信方向からそのクマの位置を知り追跡する調査を実施した。調査開始時に、演習林内の国道の地上部はほぼ完成していた。調査の途中で雁坂トンネルが開通し、国道140号線の供用が始まって、一般車両が常時通行するようになった。そうした時期に、ヘリコプターから観察する大づかみの調査成果とは対照的に、地面をはうようにして動物の実態にせまるような調査成果を得ることも重要だと考えた。
さまざまな可能性のある研究対象の中から、ツキノワグマの個体別の行動を追跡するような研究を選んだのは、多くの前例研究を比較して、私たちの研究体制の中で、この地域で一定の成果を得ることがもっとも期待できると判断したからだった。
神奈川県の丹沢山地で以前から同様の調査を実践しておられたHさんたちの調査活動を事前に見学させてもらい、ドラムカンを2つつなげてしかけを施した罠を鉄工所に注文製作してもらい、演習林の山に設置した。地元の大滝村で、罠によるクマの捕獲をしたことのある演習林職員のYさんや、養蜂家でもあるKさんたちの助言により、捕獲効率を高めるために、クマの誘引にミツバチの巣そのものを罠に入れた。蜜が貯えてあり生きた働きバチがいることにより、巣や蜜の臭いがよりよく発散し、羽音の効果も期待できるのだ。
しかし、1年目のジンクスというのがあるらしい。新たに出現した珍奇な物を野生動物は強く警戒するだろうし、不慣れで設置場所が悪かったこともあろう。1990年は、春から秋までミツバチの面倒をみながら罠の見回りを続けたものの、空振りに終わった。結局、1991年7月に、この調査で初めて標識できた個体は、Kさんの養蜂場に現れ、Kさんの捕獲器に入った雄だった。左の耳に番号W1をつけたこの個体には、捕獲後の電波追跡で、あちこちを動き回っていることがわかったので「寅さん」とあだ名をつけた。この名前は、各地のクマの調査でも愛用されていたようだ。この個体は、2001年8月に、宿泊施設の残飯置き場に出没したために付近で駆除捕殺されるまで、断続的にではあったが11年間にわたって、追跡された。
発信器による行動圏の把握
捕獲したツキノワグマには、個体識別のために「東京大学秩父演習林」の文字と番号を刻印した色つきのプラスチックの札(タグ)を、左耳にピアスのようにつけた。例えば、空色の30番は、略してS30と記す。最初のうち、上記の寅さん(W1)や後出のダイゴロウのようにあだ名もつけていたが、捕獲個体数が増えるにしたがってわずらわしくなり、この記号だけで呼ぶようになった。ただし、ツキノワグマは薮の中を突き進み、噛みつき引っ掻き合いの喧嘩もするために、この耳タグは、再捕獲したときに折損していたり、とれてピアスの穴だけ残っていることもあった。そこで、1995年の途中から、専用の読みとり機によって番号を信号で取り出せ、皮下に埋め込んでなくなる心配のないマイクロチップを、耳タグと併用した。
ほぼ成長し終わっていて、後から丈夫な首輪で首が絞まって食べ物が飲み込めなくなったり息ができなくなる心配のない大きな個体の合計23個体に、皮製の首輪に取り付けた発信器を装着した。秋に太っても苦しくないよう余裕をみて首輪を締めるので、あごのエラが張っていない個体もいて、装着したその日から数日後にクマから落ちてしまった発信器もあった。16個体を、継続して追跡できた。発信器は、長いものでは約5年間続けて電波を発信した。再捕獲したときに、首輪をはずした個体や、新しい発信器の首輪と交換して継続して追跡した個体もあった。
追跡の結果、他の研究でも知られていたとおり、そこで繁殖している雌は定着性が高く、秩父山地では地図上の7〜8平方キロに1頭ていどの生息密度でいることがわかった。行動圏は、となりどうしでかなり重なっていた(図4)。
雄は、広い範囲を動き回って電波を見失うことも多かったため、寅さん(W1)が1992年〜1993年にかけて約60平方キロの範囲を移動した以外には、はっきりとした行動圏がわからなかった(図5)。その代わりに、駆除捕獲された個体に付いていた発信器や耳タグを報告してもらって、調査地から約9km離れた塩山市(S26)や、約25km離れた北相木村(S42)まで行っていたことなどが確認された。S26は、1992年の秋に木の実が凶作の秩父から姿を消し、2週間ほど後に塩山市のミズナラのドングリの成っていた山で射殺された。そこにドングリがあることを、あらかじめ知っていたと思われ、半径10kmていどの範囲を動き回っていたと考えてよいだろう。
12回捕獲されたダイゴロウ
1991年7月から2001年8月までに、62個体について145回の捕獲記録を得ることができた。同じ個体をなるべく何回も捕獲できるように、誘引力が強いと期待される蜜蜂の巣を罠に入れ、入ったクマがそれを丸ごと食べて「味をしめ」させるようにした。2〜3日罠に入っていたらしい個体の場合は、巣箱を粉々にかみ砕いており、罠自体に対するかみつきを減らしストレスの解消に役立つ効果も期待した。そのかわり、私は、ずいぶん蜜蜂に刺され、クマが捕獲されるまで、山のそれぞれのドラムカン罠の中で蜜蜂を世話するのにも苦労した。
調査を始めたころは、出ようとして罠を囓るために歯を損傷したクマがおり、歯のひっかからないようなパンチメタルの板を入口への貼り付けるなどの、改良を続けた。概して、罠の中でおとなしくしている個体ほど、再捕獲される傾向があった。中には、見回りに行ったときに仰向けになって大の字に寝っ転がり、死んでいるのかと心配して近づいてからやっとのっそり起きあがった個体もいた。一方では、出たがって大騒ぎしているクマもいた。吹き矢の麻酔弾を打たれて大声を出して痛がった大きなクマもいれば、打たれてもピクリともしないクマもいた。そうした性格に、ずいぶん個体差があった。ただし、クマをなだめるためと、肉の厚いお尻に吹き矢で麻酔弾を打つために、罠の入口で蜂蜜をたらすと、ほぼ全個体が舐めた。蜂蜜にめがないところは、捕まった個体の中ではみな同じようだった。
2回以上、再捕獲できた個体が、27個体いた。雌でもっとも繰り返し捕獲されたのは、1994年7月から1999年の8月までの間に9回捕獲されたR56だった。彼女は、最後には仔熊2頭といっしょに罠の中に入っていた。
雄では、S27の耳タグを最初につけた通称ダイゴロウが、1992年7月から2000年7月までの間に12回捕獲された。彼は、この間にいろいろな情報を提供してくれた。1993年には、6月25日、8月15日、8月29日と3回続けてつかまった。体重が69kg、51kg、53kgと変化し、8月15日には鼻面に新しい引っ掻き傷をつけていた。これらの記録から、元気な成獣の雄は、夏のこの時期に採食は二の次で雌をめぐって争っているらしいことがわかった。ダイゴロウには、マイクロチップを3回、挿入した。あるはずの信号がとれないのは、たぶん喧嘩して頭を叩かれ、頭皮の中のチップが壊れてしまったせいだったろうと想像している。最後には、GPS(地球方位システム)の重い衛星電波受信機を1週間運んで、装置の試用と移動経路の連続追跡の記録を残してもらった。
捕獲した個体の多くから、小さい前臼歯を1本抜かせてもらい、年齢査定をした。その歯のセメント質を薬品で溶かして柔らかくしてから、凍らせ、専用の機械で極薄い切片にして着色し、顕微鏡でみる。クマは冬ごもりをするので、歯の根元に年輪が見えるのである(図6)。この方法で齢査定をしたところ、ダイゴロウは、1993年に満8歳だった。1985年の1月ごろ、母熊の冬ごもりの穴の中で産まれたことになる。2000年には、満15歳で、ツキノワグマとしては初老にあたると推定された。体重は67kgあり、毛並みも悪くなかったが、左目をつぶされた直後だった。そろそろ後輩に立場を譲る状況になっていたのだろう。
ツキノワグマは植物を食べている
クマの仲間は、ライオンやオオカミなどと同様に食肉目という分類群に入る。祖先は肉食専門で、今でもホッキョクグマはアザラシなどだけを捕食して生きている。しかし、その他のクマは植物の実などをたくさん食べる。ジャイアントパンダにいたっては、笹だけを食べている。こうした生態の進化にともなって、例えばクマの歯は、奥歯の臼歯があるていど発達しているが、牙の犬歯の後ろにある小臼歯は小さく、余り役だっていないようである。それで、齢査定のために抜歯しても、生きていく上でほとんど不便はないと考えられる。抜歯した後で再捕獲したクマの歯茎はきれいになおっていて健康だったし、もともと小臼歯の一部がない個体もいる。クマの消化管は、植物食には特に適応進化できていない。サクランボのたくさん入った糞などを見ると、ほんとうに栄養になっているのかと心配になるほど原型を留めていたりする。消化効率が悪いから、パンダなどは一日中、笹を大量に食べ続けなければならず、ツキノワグマも似たようなものだと想像される。
秩父山地でも、最初にも紹介した学生のH君がクマの糞をたくさん集めて中味を調べた。そうした調査結果をもとにして、ツキノワグマの1年の生活振りをまとめると、図7のようになる。春、冬ごもりから目覚めた後は、沢沿いの日当たりのよい場所などに生えてくる柔らかい草の葉をたくさん食べ、ブナなどの葉が開くと、最初に書いた風景のように樹上で葉を食べる。夏になると、固くなった葉よりも、キイチゴやサクランボなどの液果や、アリやハチなどの昆虫を多く食べる。秋には、ブナやミズナラのドングリ(堅果)があれば、それをたくさん食べる。これらの堅果は、豊作の年と凶作の年があり、ブナとイヌブナでは特にその変化が激しい。もっとも、奥地秩父のように豊かな自然林のある温帯の山では、これ以外にも、量は少ないながらもクリやトチなどがあり、1992年の秋のようにどれもこれも凶作で、ツキノワグマにとっては辛そうな年というのは、それほど多くないのかもしれない。おそらく、ツキノワグマの雌は、秋になってドングリをたくさん食べることができた年には、脂肪をたっぷりと体に貯えて冬ごもりに入り、双子の小さい赤ちゃんを穴の中で産み、育てる。秋に食べることができなかった年は、その年の出産は止めて、来年まで待つことにするのだろう。そのようにうまく調節のできる繁殖のしくみを持っており、木の実のなる性質によく適応した生態を備えているのだ。
野生動物との共存
弱った木に多くついて発生するキクイムシの調査を、体系的には1989年から続けている。2001年までの13年間の調査結果から、国道周辺は乾燥化や排気ガスによって弱った木が多く、北側の入川林道周辺よりもキクイムシの数が多いことがわかった。ときどき、路上に自動車と衝突した獣の死体もある。それでも、トンネルがあることた恐らく幸いして、国道が開通したことによる周辺の野生動物への影響は、明らかにはなっていない。ここには、ツキノワグマやカモシカを始めとして、多くの野生動物が今も平穏に生息している。近年、他の地方では農林業やまれに人身害が発生して、野生動物と人間との摩擦も話題になるが、秩父地方ではそれほど深刻な問題にまだ発展していないと言える。
ダイゴロウのような個体を10倍多く調べることができたとしたら、それは条件がそろえば可能なことなのだが、ツキノワグマの生態について、もっと確かなことが言える。多くの人たちの協力を得て、私たちが行った調査結果からも、ツキノワグマの生息密度や移動区域、個体差のある性質などについて、かなりのことがわかった。野生動物のそれぞれの種や個体の性質をよく理解して、適切な対応を考え、考えたことを実施できる体制を整えることによって、オオカミのように野生動物を絶滅に追いやることなく、人間も多少はがまんしつつ快適に暮らして行くことが可能になる。今後も、野生動物と人間社会の動静を見守りながら、両者が気持ちよく共存できる方策を考えていきたいものだ。
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調査エピソード(ボックス1)
ハードワークなヘリ調査
ヘリコプターで空を飛ぶ、と聞けば、ちょっと面白そう、よい景色が見られる、自分も乗ってみたい、と思うことだろう。回転翼で飛ぶヘリコプターは、機体が高価で燃費が悪くパイロット養成にも機体の保守にもお金がかかるので、固定翼で飛ぶ飛行機よりも利用料金がかなり高い。自分の懐をいためずに長時間ヘリコプターに乗る機会があれば、幸運とは言える。大型動物の目視調査のためのヘリコプターによる飛行で眼前に広がる視界は、確かに、滅多に経験することのできないスペクタクルである。
でも、しかし、命綱に身を託して開け放った機外に身を乗り出し、冬の高空の寒風に加えてヘリコプターの回転翼が打ち下ろす暴風と騒音に身をさらし、眼下にというより、日常感覚からは上下もままならず急激に流れる去る地上に目を凝らし続ける作業は、あまり生やさしいとは言えない。30分から1時間足らずの調査飛行を終えてヘリポートに戻ると、たいていは体が寒さに固まり、頭がフラフラの状態になっている。それで、ほとんどの場合、後部座席で身を乗り出す調査員は1回の飛行ごとに交代する。風防ガラスに護られ飛行に馴れているとは言え、前部座席のパイロットとナビゲーターは、気流の乱れる午後になる前の限られた時間を有効に使うため、朝から休み無しのタッチアンドゴーとなる。プロの仕事は、甘くはない。
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調査エピソード(ボックス2)
クマの前を走る
ツキノワグマの捕獲作業では、記憶の残るできごとがいろいろあった。クマの前を走ったときのことも、よく憶えている。調査を始めたころは、麻酔をかけたクマがいつ起きあがるか、心配し通しの作業だった。本文でも紹介したダイゴロウを3回目に捕獲したときにはギャラリーが数人いて、考えもなく、眠ったダイゴロウを取り囲んで作業を見守っていた。予定の作業を修了しかけて、安堵の空気がただよい始めた一瞬、むっくり起きあがった69kgのダイゴロウがこちらの方へ駆けだした。「クマに背を向けるな」などと思いつく暇もなく、「それ逃げろ!」とクマも人も同じ方向へいっしょに走った。気づくと、ダイゴロウは私たちを追い抜いて、向こうの笹藪に飛び込んで行った。後日、同じ場所で捕獲したダイゴロウを、今度は余裕を持って取り扱い、車中で起きあがるのを見守った。彼は、予想どおり、またこちら来て車の脇を通り、前と同じ笹藪に飛び込んだ。そこが、彼の定位置だった。
もう1回は、44kgの若い雄だった。麻酔がさめかけた彼は、近くの斜面を休み休みで這い登り始めた。林道がヘアピンを描いてその上へ延びており、作業に馴れた私は、薮から顔を出すクマの写真を撮ろうと上へ回りカメラを構えて待ちかまえた。急斜面を登ってくるクマは、まだ下半身がしびれていて素早くは動けないはずだった。しかし、カメラのファインダーの向こうからクマは飛び出してきた、ように見えた。一瞬、ひるがえって私とクマはまた同じ方向へいっしょに走った。靴ひもを締めていなかったので右足の靴が脱げたが、止まる気はしない。私は、ヘアピンを右へ急旋回した。彼は、まっすぐ造林地の草原へ進んでいった。振り返ると、音もなく草が先へ先へとなびいて行った。クマの足の肉級は厚く、本当に足音がしないことを確認した。
私は、まだ、クマに追いかけられたことがない。クマの前の走ったことは、少なくとも2回ある。不思議と、その場でも、思い出しても、怖かったととは思わない。
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調査エピソード(ボックス3)
クマに人工呼吸
これも、ツキノワグマの捕獲作業中の話し。調査をしていると、予想し対応を準備するのが難しいことがときどき起こる。概して、麻酔は雄のほうによく効き、雌では規定量を打ったはずなのになかなか眠ってくれないことがよくあった。しかし、1995年8月、高平のトラップで捕獲した雌の場合は、麻酔を打った後に妙に静かになってしまった。3回目の再捕獲だった。少し様子をみて、それまでの経験からもどうもおかしいと気づいた。あわてて、トラップの入口を開けクマを引っ張り出すと、案の定、呼吸していなかった。赤十字の水難救助法の講習を受けたことがあり、形式的には「人」工呼吸法と心臓マッサージ法も心得ている。しかし、相手がクマとなると、少々戸惑った。とりあえず、仰向けに寝かせ、あごを延ばして気道を確保する基本姿勢にした上で、背中を抱え上げる方法で人工呼吸を試みた。1992年10月にも一時呼吸停止した雌があり、そのときは胸の圧迫だけで呼吸を再開したが、今回は案配が悪い。運のよいことに、北海道演習林から短期交換要員としてSさんが調査に参加していた。エゾシカに「マウスツーマウス」をする方法があると、手真似を交えて教えてくれた。さっそく、両手を添えて試みると、上首尾なことに、間もなく雌熊は息を吹き返した。
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